診察室のコンピューター

 


名機、PC-8001 

(下段の説明をあとで是非読んでください)

  

  大きな病院の診察室には最近では必ずコンピューターが置かれています。診察室に入るとドクターは、キーボードとマウスを使ってこのコンピューターの画面を見ながらいろいろと操作しており、心なしか患者さんの方を向く時間が減ったような気がします。何をしているかといいますと、次回の診察予約や検査の指示、検査データや前回の処方箋などを読み出したり、今日の処方箋を発行したりしているのです。コンピューターにさせるこのような仕事を、オーだリング(指示)といっています。今までは、診察室のコンピューターではオーダリングだけをしていましたが、最近遂に、これまで永年にわたって紙に手書きしていたカルテ(診療録)もすべてコンピューター上に書き込み、読み出すようになって来ました。カルテの電子化(電子カルテ)と呼んでいます。つまるところ、医師は診察室のコンピューターを使って、カルテを書き、必要な指示を出すことになります。このように、カルテを含め患者情報を全部コンピュータで処理するようになると、患者さんについてのあらゆる情報(=記録)が、病院内の中央コンピューターを介して、院内のどの診療科の診察室、病棟のコンピューターからもすぐ読み出すことが出来ますから、どの科の外来にかかっても、あるいは入院しても診療をスムーズに行うことが出来ます。また、会計などの事務処理は飛躍的に速くなります。

 更には、そう遠くない時期に、患者さんに掛かった費用(診療報酬)を医療機関が支払基金などに請求する事務もオンライン化されることになっています。医療は初診の受付から、病院の”集金”に至るまで全部コンピューター・システムに乗っかることになります(註)。

 では、この時代、どこの診察室にもあり、患者さんの目に触れている”診察室のコンピューター”は医師、つまり行き着くところ患者さんにとって役立つ存在だと言い切れるのでしょうか。

  残念ながら答えはノーです。診察室のコンピューターは明らかに担当医の診療業務の足を引っ張っております。当然患者さんにも目に見えない迷惑が降りかかっていると思います。

 何故そうはっきりと言えるのでしょうか。答えは明快です。診療に際しては”医師は診察以外のことに気をとられてはならない”、という医師のモラルのイロハがコンピューターのせいで破られてしまうからです。医師は診察するという本来の仕事に加えて、コンピューターを扱うという、まるで異質で余計な作業までも同時にこなさなくてはならなくなりました。今までのようにカルテをペンで書くことは診察という仕事の一部として何の抵抗もなく行われてきました。ペンで文字を書くのは同時に”考えること”でもあります。カルテを書きながら医師は患者さんのことについて思案を巡らすことが出来ました。コンピューターは違います。コンピューターは”使う”前に、まずその”扱い”に莫大な精神的エネルギーを要求するのです。

 キーボードにはアルファベット・キーを含めおおよそ100個のキーがあります。マウスは最小限左右と真ん中、3つのボタンがあります。さらに、モニター(=ディスプレー)画面には選ばなくてはならない項目が何十と並びます。この中から今使うキーや画面のどれかを的確に選んで次々と操作を進めて行かなくてはなりません。この”次々と操作する必要”があるということはバカにならないコンピューターの弱点です。紙のカルテのように、途中で気が変わってカルテの古い記述などをひっくり返してザーッと見てみようなどという芸当はコンピューターでは事実上不可能です。それやこれやで医師がコンピューターに向きあった瞬間からいかに能率的に、そして間違わずに操作するかに気をとられますので、診察して患者さんについて考えてきた医学的思考は、いったん完全に止まってしまいます。向き合う相手が所詮はキカイですから、操作を知らなかったり、間違ったりしたとき、あるいはたとえ間違わなくてもソフトの不具合などでこちらのいうことを聞かかくなることはいくらでも起こります。ときによるとウンともスンともいわなくなります。さらにもっと始末の悪いことに、医学的に間違った指示をしたときなどに限って、コンピューターはノーチェックで間違ったままで指示を受付けてしまいます。これは場合によっては深刻な医療過誤につながりかねません。医師はそういう間違いをおかすかもしれないという恐怖におののきながらコンピューターを”扱う”ことになります。猛烈なフラストレーション(不快感)が、コンピューター・システムというものに対して沸いて来ます。診療に際して最も大切な冷静沈着さがコンピューターを操作するが故に失われかねません。

  コンピューターは組み立てたときはトランジスタを詰め込んだ箱に過ぎません。「コンピューター、ソフトなければただの箱」。まさにその通りです。そういうキカイがいのちを吹き込まれ、みどりの窓口の指定席券予約機や、銀行のATMに、そして、病院の患者管理システムになっているのはそれぞれの業務に”適した”ソフトウエア(ソフト)を組み込んでいるからです。ソフトウエア、つまりプログラムは、コンピューターが人間の頭脳に代わって仕事をするための手続き書です。誰かが書いた、この手続き書の出来不出来がコンピューターの”頭の良し悪し”を決めています。

 診察室で使うコンピューターにも当然医療業務向けのプログラムが組み込まれています。どの病院でも通常その病院に適するように誂えられた特注のソフトを使っています。でも特注だから使い勝手が良い、というものではありません。むしろその逆です。わたしたち庶民がふだん使っているワープロなどのパソコンソのソフトは万人向きに作られた既製品です。これら数多くの一般向け既製品ソフトは、長年多くのユーザーの意見を取り入れるなどして改良を重ねてきただけあって随分と使い勝手が良くなっています。これに比べますと、病院のコンピューター・システムとして使われているソフトは今ひとつ洗練されていません。使い勝手はお世辞にも良いとはいえません。歴史の浅い医療支援ソフトの世界では、ノウハウの蓄積がまだ絶対的に不足しているでしょうし、商売敵である他社の技術者との情報交換も多分あまりなされてはいないはずです。個々のシステム・エンジニアの努力は多としますが、診察担当者ではない彼ら技術者が”かゆいところに手が届く”ようなシステムを組み上げることなど到底望むべくもありません。

 電子カルテの話をしておきましょう。

 紙に代わって電子カルテを使うことには問題点が少なくとも二つあります。その一つは、カルテへの書き込みが患者さんの目の届くところ、つまり机の上のモニタ上で行われることです。紙のカルテの時は、カルテは机に水平に置かれ、医師が何を書いているかは患者さんから見えませんでした。電子カルテは患者さんから丸見えです。カルテはいずれ開示するものだからいいではないか、という考え方があるかも知れませんが、わたしは、リアルタイムで患者さんがカルテを見てしまうことには賛成しかねます。患者さんに訊いてみたいと思います。あなたはあなたについてドクターがカルテに書いていることをリアルタイムで見たいですか? わたしが患者だったなら絶対お断りです。ドイツ語で書けばいいではないかって?いいえ、駄目です。現在、ほとんどの医者はドイツ語は全然出来ません。多くの医師はカルテを日本語で書いています。患者さんに読まれないように、モニターを患者さんの見えない所に置けばなんとかなるかも知れませんが、診察とコンピューター入力を並行して行わなければならない外来診察室ではそれは非現実的です。

 つぎに、二番目の問題です。こちらのほうが深刻なことかも知れません。

   電子カルテを書くときは、紙のカルテ時代にはペンで書いていたことをキーボードで打ち込まなくてはなりません。医師は誰でもがタッチタイピング(=キーを見ないでタイピストのように打つこと)をマスターしているわけではありません。タッチタイピングが出来ないドクターは指一本でポツポツとキーを押さなくてはならなくなります。結果、一行書くのにも難渋し、膨大な時間がかかりますから、精神的負担は想像以上のものです。そうなると、出来るだけ少ない文字使いで済まそうという気が起こるのは人情です。「電子カルテになって全般的にカルテの記述内容が貧困になった。電子カルテのこれが一番の問題だ」、とはある大病院の診療科部長の言葉です。この言葉通りだとしたらカルテの電子化は皮肉なことに患者情報の脱落を招き、医療の質を低下させていることになります。

 余談です。電子カルテになると嬉しいこともないわけではありません。それは、仲間の医者達の書く判じ物のような乱暴な文字をもう読まなくて済むようになることです。これが電子カルテのささやかな、そして案外無視できないメリットかも知れません。

 最後に、

  診察室のコンピューターはプロ用の機器です。働いて収入を得ていますから・・・。プロ用の機器は、はじめからある水準の仕事をこなす能力を備えていなくてはなりません。また、アマチュアならやらないような乱暴な使い方をしてもそれに耐えるだけの余裕や柔軟性が必要です。今の診察室のコンピューター・システムはプロ用と呼ぶにはあまりにひ弱です。CPU (中央演算装置)の能力や通信(LAN)の速度をはじめとしてハード(機械の性能)的にまだまだ”極めて”非力であることに加えて、組み込まれているソフトが日々変化、進歩する医療環境に追っつかないなど、常に試行錯誤途上の半製品でしかありません。コンピューターは患者情報の一括管理、事務処理の効率化ではかけがえのないものであることは最初にも書きました。しかし、肝心なこと、つまり、診療の場で診察業務の支援という第一の目的を果たしているかといえば、疑いもなくそうでないというほかはありません

   このように考えてくると、つまるところ、”過ち多い人間”と”不完全なコンピューター・システム”との間を如何にうまく取り持つか (man-machine interface) について、医療関係者の側も、コンピューター関係者の側も今までは、あまりにも無知、無関心だったことが今日の混乱を招いていることがわかります。1936年、チャップリンは名作モダンタイムズで、機械文明の歯車にされてしまう人間の悲劇を描きました。同じことが70年後の今日にも起こっているのです。情報システムという歯車に医療現場が"噛み合わないまま”組み込まれようとしています。何とかしないとチャップリンが演じた工員と同じ運命が繰り返されることになります。

  いずれコンピューターはソフトもろとも進歩して、ここに述べたようなことはすべて解決される時代が来るだろうとは思います。しかしそれはずっとずっと先のことです。

 現時点での診察室のコンピューターについての問題点を”当面回避する”ための方策としては、診療現場でコンピューター操作を専門に行う新しい職種を創設して人材を養成し、各診察室に配置するしかないでしょう。それだけのためにも制度の整備、予算など、時代に見合った国家的対応が必要です。

 敢えてさらにひと言。今の時代、コンピューター・システムは医療現場においてよかれあしかれ必需品となりつつあります。医療行為をコンピュータに”支援”させることはいのちをコンピューターにゆだねることにもなりますので、医療現場のコンピューターには限りない信頼性が求められます。でも、現在のコンピューター・システムに全幅の信頼を求めるのはとても無理です。ですから、システムを作る側も、使う側も、コンピューターを操ることはきわめて危ないことをやっているのだという認識だけは決して忘れてはならないと思います。

(書き下ろし2008/10/26、改訂08/10/31、大阪阪南RC卓話09/12/8: T.INOUE)

 

 

(註):友人のY先生から聞きました。診療報酬請求事務をオンライン化するに当たって、とてもついて行けないと、診療所を閉鎖することを考えている先生が出て来ているそうです。大切なドクターがつまらないことで失われます。こういうケースが出ないよう援助する手だてが早急に求められています。

 

 

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名機 PC-8001

  写真は、1979年わたしが買った最初のコンピューター、PC−8001 です。現在も大事に保存しています。一週間入荷待ちして買いました。本体168,000円。グリーン=モノクロ・ディスプレーは39,800円。大阪ナンバのNEC直販店 Bit inn で一円もまけてくれませんでした。この時代コンピューターを売っているのはここだけだったのです。これで研究結果をANOVAという統計処理をするためのプログラムをビル・ゲイツという若者が開発したBASIC というプログラム言語で自作しました。そのプログラムを使って統計処理をしたわたしと友人の論文はアメリカの内科学雑誌に採用されました。でも、、このコンピューターは「年月日」以外は漢字入力などは出来ませんでしたから、事務用としては統計計算や、学生の成績集計などの計算として使うほかでは、辛うじて英文ワープロの真似事が出来るだけでした。このマシンでほかに出来ることといえば、コンピューターそのものについて勉強することと、インベーダー・ゲームなどをすることぐらいだったのです。PC-8001が世に出る前のアマチュア向けコンピューターとしては、 TK-80 という、超マニア向けの基盤一枚のものが(ワンボード)マイコンとして売られているだけでした。わたしははじめはこのTK-80に憧れていました。因みに TK-80 のTK はトレーニングキットの頭文字です。1978年、はじめて世に出たキーボード付の”実用可能な”このマイクロコンピューター PC-8001 には無限の夢が詰まっているように思えました。何よりも、”わたしの作ったプログラム”(命令)通り忠実に知的作業をやってくれることに感激し、まるで友達が出来たように感じました。このマシンのお陰で、自宅では、わたしとコンピューターの間には以後も良好な関係が続いております。PC-8001を名機と呼ぶゆえんです。でもこのマシン、プログラムを書くとき行(ぎょう)の右端の1文字が脱落するという重大なバグがありました。それをメーカーは承知で売り、ユーザーも納得ずくで使っていました。愛すべきものであること、それも名機の条件です。今の診察室のコンピューターは嫌悪の対象です。PC-8001とどこが違うのかを考えれば自ずと道具としてのコンピューターのありようが見えてくるのではないでしょうか。

 

 

 

 

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