結核の恐怖





 初恋

 

砂山の砂に腹這ひ

初恋のいたみを

遠く思ひ出づる日

 これは石川啄木(1S86-1912)の代表的歌集、「一握の砂」のなかの一首です。この歌集には1908年以後に詠まれた歌が収められいます。同じ歌集にある他の歌にくらべればこの一首がとびぬけて明るくのびやかな印象をうけます。昭和のはじめ、越谷達之助がこの歌にとても美しいメロディーを与えて「初恋」という歌曲にしました。ここをクリックするとソプラノ森麻季の「初恋」を聴くことが出来ます。

 この歌曲を聴けばだれでもがそこに詠われているとおりの青春の日々の叙情的感情がよみがえって来るに違いありません。それはなんと美しい音楽でありますことか。

 しかし、この歌も、「一握の砂」にある他の歌とおなじように深い哀しみ を詠っている、と私は思うのです。それは作者啄木が結核を患い、この歌を詠んでからわずか4年ののちには26歳の若さで世を去ったことと無関係ではないからです。

 啄木はみじかい生涯を、貧困と持病の結核という二つの苦しみよって悩まされ続けました。もし、彼が安定したなりわいを持ち、また、身体健やかな若者であったならば後世に残る啄木の歌は決して生まれることはなかったでしょう。彼は自分のやまいが連れて来る死の足音におびえ続け、歌を詠むことによってやっとその恐怖に対峙しえたのだと思います。だから彼の歌には常に死の影がつきまとい、作品は深い諦観のなかにあります。「一握の砂」、とそれに続く「悲しき玩具」はそのような状況でで詠まれた歌集なのです。

 「初恋」、この歌に戻って話しましょう。この一首は「一握の砂」に五つある歌集のうちの最初のもの、「我を愛する歌」の六首目に出てきます。ここに詠まれた砂山とは、この歌集の最初の一首がよく知られている、「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」、で歌い出していることなどからみて、海辺の白い砂浜に前夜の風で吹き寄せられて出来た小さな砂の丘だったと思われます。では、砂山に腹這った啄木はたとえば”頬杖をつくなどして”遠くの海と空を見ながら甘美な初恋のときを思い出していたのでしょうか。いや、そうではありますまい。そうではなくて、腹這った啄木はごく自然に目の前にある砂を何度も手ですくってみたのだと思います。砂は指の開からさらさらともとの砂山にこぼれ落ちました。そのようにして指からこぼれ落ちる砂を見て、啄木は自分のいのちがその砂とおなじようにわが手をすり抜けていくのを感じていたのではないでしょうか。「初恋」というはかなくも美しいことばに託して、初恋がそうであるように、自分の人生そのものもわが手を離れて落ちる砂のように、まさにだれかの思い出としてしか存在しえない遠いものとなりつつある淋しさを詠嘆したのだと思います。「初恋」の歌の二首うしろにある次の一首がそのことをよく物語っています。


いのちなき砂のかなしさよ

さらさらと

握れは指のあひだより落つ

   石川啄木の文学は結核という彼のやまいを抜きにしては語れません。結核は、まだ少年のあどけなさが残るはたち過ぎのこの若者をして、彼の初恋があたかも何十年も昔の出来事であったかのように、「遠く思い出づる」ことと詠ませ、ひいては、まるで大成した大人のように、はたまた老人のごとく人生を語らせることになりました。

 歴史上結核を病んだために生き急いた芸術家は枚挙にいとまがありません。たとえば喀血を繰り返す自分を、「啼いて血を吐く鳥ホトトギス(子規)」にななぞらえた正岡子規や、自分の肺にあいた空洞内にしたたり落ちる血の音から前奏曲「雨だれ」を作曲したとされるショパンなどがそうです。「雨だれ」は明るく始まりますが、やがて曲が進むにつれ、雨の日の暗さ、というだけではとうてい説明がつかない、陰惨で、不気味な音楽に変わって行きます。啄木が、子規が、そしてショパンがたまたま結核を患ったのではありません。結核が、啄木を、子規を、そしてショパンを育てたのです。結核というやまいはそのように人をつき動かし、場合によっては人類の歴史まで変えてきました。一万年も、いやもっと昔から人類をさいなみ続けた大敵、結核に、史上はじめて”一矢を報いる”ことが出来るようになったこの時代に、その”魔法の矢の射手”になれたことをわたしはほんとうに幸せだと思っています。でも、この”矢”が、せめてもう一世紀あまり前に作られていたらさらにどんなによかったことでしょう。沖田総司も、滝廉太郎も、また、優しく私の子守をしてくれて、それなのに若くして逝かなければならなかったわたしの叔父、叔母たちも救うことが出来たでしょうに。ともあれ、石川啄木の「初恋」を聴くと、いつも、わたしの心には、大阪西成の愛隣地区(釜が崎)の結核医者として過ごした青春の日々がよみがえってきて、あらためて医者としての自覚と勇気が湧いて来るのです。

 

(註:冒頭のレエックス線写真は愛隣地区で発見された重症の両肺結核患者のもの。写真の下部、横隔膜より下(白いところ)にも蜂の巣状に無数の丸い空洞が黒く透けて写っている。現在、これほどひどいものが愛隣地区以外で見つかることはほとんど考えられない。この患者の肺で呼吸が出来ているのは左肺(写真では向かって右)の上半分のさらにその一部だけだろう。かつては、たいていの結核患者がこのような状態になって死んでいった。今の結核医療の技術レベルでなら、この段階からでも救命しうる可能性はゼロではない。 撮影;ドコモ携帯電話 SH505iS=シャープ製 200万画素に設定して撮影) 

謝辞:当日、この卓話のために「初恋」をピアノの弾き語りで歌ってくださったオペラ歌手帯刀享子さんに心から感謝します。 

大阪阪南ロータリークラブ(現大阪天王寺RC)卓話要旨(02ノ11/12; 改訂 05/10/15)

 

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