道一筋

 

 

  わが家は代々由緒正しい百姓です。おまけにたった二代前の分家なので、先祖伝来の”おたから”というものがまるでありません。その中でめずらしくわが家の”たからもの”と呼べるようになったものに村山実氏の色紙があります。この10年あまりずっとわたしの部屋に飾って見飽きることがありません。これは平成4年8月23日の大阪市立大学医学部野球部創立40周年式典に講演に来てくれた村山さんがら当日戴いたものです。「井上様」とその場で書き加えて下さった姿を忘れません。その色紙をよく見てください。彼の右手の手形の中央に「道」と丁寧に書かれた太く立派な文字が座っていて、脇に小さく「一筋」の文字があります。彼のこのモットーは生涯変わることはありませんでした。人生の中心線が揺るがない、とても立派なことです。なお、この色紙の彼の手形にに私の右手を重ねてみると彼の指は私の指から1センチ以上長くはみ出します。さすがはフォーク・ボールが投げられる大きな手だなと感心します。村山さんは惜しくも平成10年8月22日亡くなりました。それはあまりに早すぎ、かなしいことでした。わたしの大学入学の昭和29年度は、学校は違っても同期に巨人長嶋、南海杉浦がおり、村山さんは学年はひとつ下だけれども、生まれ年はわたしと同じなのです。今でもテレビにちょくちょく出てくる長嶋クン(原稿製作の平成14年当時)を見ていると「俺もあんなに老けたなあ」などと思ってしまうのですが。そういうわけで長嶋や村山さんらの活躍はわたしの青春と全く重なるのです。

 ともかくも村山さんの手は大きく、彼は偉大でした。子供の頃、わたしは医学博士であった父に、半ば冗談だと思いますが、こういって激励されました。「どんなことでも良いから日本一になれるようがんばってみなさい」。「泥棒でもかまわないから」と付け加えたような気もするのですが、これはさだかではありません。申し添えますが、父の時代の博士様は文字通り「末は博士か大臣か」、今の博士より段違いに偉かったようです。博士が誕生すると写真入りで新聞に載ったのです。父は誇りをもっていました。日本一になることがどれくらい難しいかは今日まで人生を積み上げてきてやっとわかってきました。学者として、いや、ふつうのお医者さんとしても、大阪一にさえとってもなれるものではないと。それにひきかえ、村山さんは十分以上にやり遂げた人です。もし、彼が全盛期に大リーグに挑戦していたら、野茂よりももずっと活躍しただろうと思います。その証しとなるような村山さんの記録を少し捜してみましょう。生涯222回の勝ち投手。そして、長嶋に敵愾心を燃やし、自己1,500個目の三振は、こだわって彼から奪い、王を2割4分5厘に抑え込みました。しかし何といっても、生涯防御率2.09というのがものすごい成績です。昭和45年には年間防御率0.98という信じられないような成績が残っています。ラッキー・ゾーンを作って球場を狭くし、ホームランが出やすくしてあった当時の甲子園で、駄目トラを背負ってこれだけやったのです。歴代日本のプロ野球投手で実力ナンバーワンは江夏豊だといわれていますが、一球入魂、意地までも球に詰め込んで投げた人間的魅力をあわせれば歴代日本一の投手は絶対村山さんだと信じています。わたしには、「阪神から何ももらっていないのに何でみなさんファンになるの?」みたいな醒めたところがあって、昔からどのチームのファンでもありません。ですが、個人としての選手は心から応援しました。「長嶋がんばれ!巨人は負けろ!」というあのパターンです。だから、当時村山さんが長嶋相手に鬼のように投げるのをテレビで見るのはとても楽しいものでした。あの有名な昭和34年6月25日後楽園での天覧試合はテレビで生中継を見ていました。正直いうと村山さんから長嶋がホームランを打ってサヨナラになったとき、「ヤッタァー!」と思いました。でも、天皇陛下の前であの打たれ役になれるのは、ご本人はさぞ無念だったでしょうが村山さん、あなたをおいてほかにはいなかったと思います。相手が村山だったから長嶋のホームランも輝きました。

 さて、振り返って長い教師生活を終え定年を迎えたわが身はどうでしょう。「道一筋」の色紙に負けなかっただろうか、あるいは父の激励に応えられたのかと自問自答してみます。専門分野では一つくらいは誇れるものがあるのではないか、と自分では思ってみたりしますが、さあどうでしょうか。アメリカの教科書にも載ったことだし。でも、そんなこと村山さんが2,30種類の日本一の記録があるのに比べれば寥々たるもの。別件の内職の研究課題で一つ、誰にも相手にされず、陰でこつこつと30年間やってきた「血清蛋白分画の独自の解析法」はどうでしょうかね。誰もやらなかったこと、みなに相手にされなかったこと、むしろそれが誇りなのですが。本も書きました。畏友山上勝久博士のご尽力により、このホームページの「開設講座」にその一端を紹介しています。定年の前の年になってやっと山口医大松野先生や自治医大のご厚意で、これをテーマにした教育講演をやらせてもらいました。本職のリウマチ・膠原病学では残念ながらスポットライトを浴びることはありませんでしたのに。野球に例えれば、ピッチャーがピンチヒッターに出てヒットを打ったようなものです。この研究は、道ばたの花をしはし眺めるようなやり方でできるので、医者として現役であれば続けられます。だから、公開している講座のページはときどき追加することが出来ます。あえていえばこれが学者としてのわたしの一番心安らぐ散歩「道」なのでしょう。

 立派な選手の話をしているのに話が散漫になってすみません。あとすこし。

 野球選手だけが知っていること。野球中継でどんなに丹念に映像を撮っても絶対にテレビに写ることがなく、家庭や観客席では決して味わえないもの。それは打席でバッターが聞くピッチャーの投げ込んでくるボールの音です。私たちのようなピッチャーの球速が時速100キロがどうかというようなレベルの野球でも投手の投げたボールは「シュルシュル」と唸ってやってきます。この音のもつ迫力は試合で真剣勝負の打席に立ったものにしかわかりません。はっきりいって少し怖いですよ。村山さんやランディ・ジョンソンが投げ込んでくる剛球を腰を引かずに打席で構えられるだけでも大変だろうと思います。もし、デッドボールを食らうとヘルメットをかぶっていても当たり所が悪ければ軽傷では済みません。事実、長嶋は現役晩年にはボールを怖がって腰が引けて手だけで打つことが多くなっていました。

 どんな職業でも、いざプロとなってみると、このボールの音のように、はたからは見えない怖さがあります。ロートルでも現役なら打席に立たなくてはなりません。医者をバッターに例えれば患者さんはピッチャーにあたります。ときには、とても打てそうにない速球やくせ球がやってきます。それを腰を引かず、何とか空振りしないで打ち返さなくてはなりません。そう思いながら必死で打席、いや外来を勤める日常です。

 教師、学者、医者と三つの顔をもって大学生活を送ってきました。全部まとめれば生涯「医者」。それがわたしの「道一筋」といえるのなら幸せです。

 (初出 大阪市立大学医学部野球部50年記念誌 2002/12/9、一部修正2005年秋)

創部50周年記念会場にて。正面わたし。

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