FANTASIA
DVD 映画 「FANTASIA2000」のケース
音楽鑑賞とは、鳴っている音の組み合わせを聴いて、心にさまざまなイメージ(心象)を描く楽しみだ、と定義してもあまり間違っていないと思います。さらにそのイメージさえも映像で見せてもらえたらそれはもう一番楽な音楽鑑賞法だといえます。全部が”あてがいぶち”だとういう大きな問題はありますけど。
昔、「ファンタジア」という映画(※註)が作られたことをご存知ですか。音楽を聴いたとき心に浮かんでくるイメージを動画(アニメーション、アニメ)で映像化したものです。漫画大好きのマエストロ、レオポルド・ストコフスキーとウォルト・ディズニーが意気投合してこの映画を作りました。制作されたのは1940年ですが、「総天然色」、「立体音響(ステレオ)」と、当時としては画期的な映画でした。わが国では昭和30年頃やっと劇場公開されました。作られて15年を経過していましたが十分すぎるほどに新鮮でした。クラシック音楽を知ってまだ日の浅かったわたしは期待いっぱいでその映画を見ました。バレリーナに仕立てるにはおよそ不向きなカバやワニにバレエを踊らせてみせたポンキエルリの「時の踊り」や、激しい音響の嵐の中に繰り広げられる天地創造の物語、ストラビンスキーの「春の祭典」など、この映画から受けた強烈な印象は映画を見てから半世紀を経た今日でも少しも色あせず胸の中にあります。当時では、天然色アニメもそうそう観る機会はなく、当然、高忠実度(HiFi)音響にいたってはまったくはじめて聴くものでした。
(※註:最近、オリジナルの「ファンタジア」が著作権切れとなり、そのDVDがワン・コイン(500円、BD版3,000円)で買えるようになっています。DVD の音はSPに毛が生えたくらいでしかありませんが、ファンタスティックなアニメはさすがはオリジナル、ディズニーの卓抜な着想や構成は音の欠点を忘れさせてくれます。2000より内容的にはこちらのほうが上だと思います。)
そこで夢よもう一度。「ファンタジア2000」が最近作られました。60年前のコンセプトを今日の技術で作り直したものです。「魔法使いの弟子」だけは旧作(オリジナル)がそのまま使われていますが、それ以外はオリジナルにあった「時の踊り」、「田園」、「禿げ山の一夜」、「アヴェ・マリア」などの傑作が外され、これにかわって、「ローマの松」や「火の鳥」などの音楽が採用されています。当然イメージされたアニメもそれにふさわしいものになっています。演奏はオリジナルがストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団だったのに対し、2000はジェームス・レバイン指揮シカゴ交響楽団の超HiFi録音にかわっています。
「ファンタジア2000」が、もし今でも映画館で上映される機会があるのなら、映画館で鑑賞するのが一番でしょう。でもそれがかなわなくても、今はDVDが売られていますので、家庭でもテレビにステレオ再生装置を接続できている人は、クラシック、いや、音楽そのものの好きか嫌いかにかかわらず、この「ファンタジア2000」を一度鑑賞されることをおすすめします。5,000円近い値段は正直高いと思いますが、借りてきてでも見る値打ちはあります。テレビのスピーカーで聴いたのではこのDVDの楽しさは半分も味わえません。ぜひ「それなりの」再生装置でお聴き下さい。かなりのオーディオマニアでも満足できる音です。映像がハイビジョンでないのは残念ですが大画面テレビでの鑑賞になんとか堪えます(追記:2011年に発売された、BD=ハイビジョン版は4,500円ほど買えるようになっています)。
「ファンタジア」はオリジナルも、2000も、音楽から受けるイメージを映像として表現していますが、元の曲の成り立ちによって、それらの映像化には次の三通りあることが両バージョンとも映画の中でで解説されています。まず第一番目は、物語りのある曲を、そのストーリーを筋書きどおり追って映像化したもの(この映画で使われている曲でいえば「魔法使いの弟子」;以下同じ)、次に、ストーリーはない音楽であっても、ある雰囲気をもった音楽を風景や動物のアニメなどで映像化したもの(「ローマの松」)、最後に、その音楽をどう受け止めるかはまったくあなた次第といういわゆる”絶対音楽”を幾何学模様など、とくに意味をもたないアニメとして画にしたもの「運命交響曲」第一楽章)、これら三通りです。これはまさしく私たちがふだん音楽を鑑賞する基本的姿勢のイロハ、そしてX,Y,Zです。わたしたちはディズニーのように達者に本物の画を描くことは出来ません。でも、目をつむって好きな音楽を聴けば、心のキャンバスにディズニーにも負けない素敵なあなたのオリジナルの画が描けることでしょう。
それができれば、もうクラシック音楽鑑賞は免許皆伝です。
「ファンタジア」も「魔法使いの弟子」もご存知なかった方へ。
「ファンタジア」という傑作映画はディズニーとストコフスキーが食事をしながらの会話から生まれました。最初は「ファンタジア」全部のの構想ではなく、ただ、「”魔法使いの弟子”をアニメにしたらどうだろうか」というアイデアから始まったと伝えられています。それほど「魔法使いの弟子」というテーマはアニメ向きだったのです。では、デュカ(ス)の「魔法使いの弟子」って何でしょう。ゲーテが書いた同名の詩にフランスの作曲家デュカが1897年曲をつけ発表した音楽です。映画では魔法使いは怖そうなおじさんの姿ヲしています。魔法使いの弟子はミッキー・マウスが演じます。 『魔法使いがミッキー・マウスに水汲(く)みを言いつけて出て行きます。その留守のあいだ、魔法使いが置いていった魔法の三角帽子をちょっと拝借してかぶったミッキーが呪文を唱えながら指から魔力を出して箒(ほうき)に水汲みを命じます。箒には両腕が生えてきて、その手にバケツを握り、黙々と水を汲んでは運ぶという作業をはじめますがやがて家中が水浸しになってきます。ミッキー・マウスはあわてて箒に水汲みをやめさせようとします。しかしミッキーは魔法を解く呪文までは習っていませんでした。もたもたしている間に事態はいっそう深刻化します。万策尽きたミッキーはそこにあった斧(おの)で箒を木っ端みじんに叩き折ります。ヤレ一息、と思ったのもつかの間、箒の”かけら”がそれぞれ全部”一人前”の箒として復活してしまい、それ達がみんな水汲みをはじめます。万事休す、部屋は水没。と、そのとき魔法使いが帰ってきて、彼の呪文でいままでのことは嘘のように消えてしまいます。ミッキー・マウスはおずおずと帽子を差し出して許しを乞います。』
これほど音楽にドンピシャリのアニメが作れるものでしょうか。いやむしろアニメを見てデュカが曲をつけたといっても誰も疑わないでしょう。
わたしがこの曲をはじめて知ったのはこの映画、「ファンタジア」を見たときでした。それからは、わたしの心のなかには「魔法使いの弟子」の格好をしたミッキー・マウスがいつも住んでいます。ちょっとした幸せです。
・・・とこういう話をしますと「魔法使いの弟子」のような物語性のある音楽が入門者向きだと思われるかしれません。しかしそれは違います。わたしがこの曲を好きになったのは「ファンタジア」という傑作アニメとの出会いがあったからこそです。何の予備知識もなしに、もちろん映像もなしに、この曲をはじめて聴くと、ちょっと不気味なこの曲の意図するところはさっぱりわけがわかりませんから、心のなかにミッキ・ーマウスが住むこともなかったでしょう。「ファンタジア」以外のどこかでこの曲とはじめて出会っていたとしたら、そのあと聴き続けることになったかどうかさえ怪しいものです。ストーリーをもつ曲はそのように何がしかの予備知識がないと理解できません。音楽自身が自然とハートに訴えかけてくることはまるでありません。とってもおもしろい音楽ですが、この種の曲は漫画向き、底が浅いともいえるのです。
音楽を聴くとき、いつも「ファンタジア」がそばについていてくれているわけではありません。 その点、映画の中で述べられている第二、第三のグループに属する音楽、すなわち、雰囲気だけを表現している音楽、あるいは、元々は意味をもたない音の組み合わせの妙だけを楽しむ音楽、たとえばバッハの多くの曲などのほうが予備知識なしでも音楽にひたれます。クラシック音楽のほとんどはこの第二、第三の仲間に入るものです。釣り人の格言、「ヘラブナ釣りに始まりヘラブナ釣りに終わる」、といいます。音楽では、「モーツァルトに始まりモーツァルトに終わる」、といわれています。「バッハに始まりバッハに終わる」、とはいいません。バッハ・ファンは不満でしょうけど。
わたしもバッハでは困るのです。わたしにとってバッハとブラームスはそれぞれ別の意味で苦手な作曲家です。バッハの音楽は抽象的に過ぎ、語られているものをわたしはうまく受け止められないのです。バッハを聴くには「ファンタジア」、言い換えれば「アニメ」の助けが欲しいなと思うときさえあります。一方、ブラームスは妙に思わせぶりで、「だからどうしたの?」というフラストレーションが残ってしまうのです。大傑作といわれる「交響曲第1番」でもです。そういうことをいうと、なぜか高級音楽ファンからバカにされます。モーツァルトが一番いいですよねえ。何ら先入観なしに聴いても、生きるよろこびやかなしみがそこはかとなく伝わってきますから。モーツァルトを聴くのに「ファンタジア」は要りません。西暦2006年はモーツァルト生誕250年目でした。