たった一つだけ越えなくてはならない垣根がある
上の写真の左側は「愛唱歌集」のCDアルバム、右は交響曲のLPです。この二つはどこかが違うのです。どちらも立派な音楽なのですが。
そうです、左側に写っているアルバム(童謡と世界愛唱歌)は全て歌詞が付いた歌(唄)を集めたCD、右のLPは歌詞のない楽団演奏、ただそれだけが違います。ちょっとした差ですが、それは音楽としては決定的な違いだといえるのです。
私たち日本人のほとんどは、「歌詞が付いた歌こそが音楽だ!」と思っています。「「歌えないものは音楽ではない!」。「カラオケで歌えるものだけが音楽!」。童謡、歌謡曲、演歌、民謡みな然り、そして懐メロもまた然り。これらは全部”歌詞”が付いた音楽です。しかし、あれは音楽のごくごく一部でしかありません。
歌謡曲などの多くは、まず、歌詞があって、それに合わせて曲をつけています。私たちが聴いているのは乱暴な言い方をすれば、メロディーのついた詩の朗読のようなものです。良くも悪くも「歌詞が語っている世界」から一歩も出ることが出来ません。「恋、涙、別れ、川の流れ」の世界なのです。ついでですが、美空ひばりの「川の流れのように」は、内容的にはフランク・シナトラ(ポール’アンカ作詞)の「My Way」のパクリです。閑話休題
これに対し、器楽演奏は”どう聴こうとそれは受取り手の自由”にまかされています。このことが音楽にとって一番大切なこと、そして音楽を長く愛していくためには欠かせないことなのです。歌詞がないからこそ、何を聴いても心のなかであなただけの歌を歌うことができます。一曲で何十、何百もの歌が歌えます。この説明は哲学的に過ぎますか?では、こう申し上げたらどうでしょう。歌詞のある歌は、いつか飽きが来ます。例外はあると思いますが。だから流行り廃りがありますし、いずれ「懐メロ」になってしまいます。歌詞のない音楽はどうでしょうか。それは同じ曲が日々、時々刻々新しいのです。毎日聴いても飽きません。流行することはありませんが決して廃ることもありません。いつまでも現役で、懐メロになることはありません。長い友達になってくれます。これでどうですか?
クラシック音楽と仲良くなって頂くために越えなくてはならない垣根とは、このように、
歌詞のない音楽を好きになってもらうこと
たったそれだけのことだけなのです。これが、クラシック音楽をあなたのものにして頂くために必要なだだ一つの”条件”です。
でもやはり、歌詞がないのはそんなに苦手ですか?。では、無理矢理に歌詞を付けて歌ってみましょう。楽団演奏が好きになるのはそのあとでも結構です。かつて、わたしが唱歌「家路」を知ってから、「新世界」交響曲が好きになるまでのいきさつをお話しします。
わたしが「新世界」交響曲というものにはじめて出会ったのは、高校一年生のとき、コーラス・グループで、合唱曲「家路」のもとはこの曲なんだと教わったときでした。でも、無知なわたしは、逆に「家路」をもとにして、ドヴォルザークが「新世界」交響曲を作ったのだ、としばらくの間思っていました。わたしが習った歌詞は「森の梢、暮れ初めて、ねぐら急ぐ鳥七つ・・・」だったと思います。曲はあまりにもその歌詞にぴったりでしたから。というわけで、家路」のメロディーが大変気に入ったので、それ以後たまにラジオで「新世界」交響曲が放送されると、それをがんばって聴きました(当時ステレオなどありませんでした)。「新世界」交響曲第二楽章でイングリッシュ・ホルンが奏でるそのメロディーを一度聴いてみてください。野上彰が書いた「家路」の歌詞(下記)をご存知の方は口ずさんでみてください。そして、いつかは、第二楽章だけでよろしいから、ぜひ、「新世界」交響曲をオリジナルのオーケストラ演奏で聴いてください。きっと、あなだけの「新世界」、あなただけの「家路」が心のなかに鳴り響くことでしょう。
響きわたる 鐘の音に
小屋に帰る 羊たち
夕日落ちた ふるさとの
道に立てば なつかしく
ひとつひとつ 思い出の
草よ 花よ 過ぎし日よ
過ぎし日よ
、