膜性腎症(MN)がネフローゼを発症する瞬間

 
症例  66歳 女性  膜性腎症(MN)
ネフローゼ発症までの経過

 本症例は 1995 (95) 年、蛋白尿とネフローゼ (nephrosis) のため入院し、腎生検にて膜性腎症(MN)と診断され、ステロイドと免疫抑制剤治療を受けて、ネフローゼ状態から脱していた患者である。 寛解してからはステロイド治療はせず、約 3 年間、待期的に観察され、無事経過していた。この間体重はほぼ 44 kg を安定的に維持し、下腿浮腫は無いか、あっても軽度にとどまっていた。しかし、98 年 10 月、それまで来院時スポット検尿が常に ± (30 mg/dL程度)に安定していたものが 214 mg/dL、12月には 299 mg/dL と悪化してきた。 98  年の夏頃から自覚的にもやや体調の不良を覚えていたが、加えて、99年 1 月初頭、家庭に不幸ごとがあって心身共に過労となり、同月 22 日、定期受診の日にはいっそうの体調不良を訴え、下腿の浮腫の増悪と新しく腹壁の浮腫が発見され、ネフローゼの再発が疑われた。このとき、体重は 45 kg と、1 kg 増加し、来院時のスポット尿蛋白は 612 mg/dL と前月よりもさらに悪化していた。 このときの血清クレアチニン(Cr)は 1.1 mg/dL であった。
図と表の説明

 泳動図は今回ネフローゼに陥る直前の 98 年12 月のものと、発症直後 99 年 1 月、間隔一ヶ月のものを左右に比較して提示した。右泳動図では、 α2-gl から β (α2-M/β-Lp)の位置で 陽極側は急峻に立ち上がり、β 方向へ盛り上がるネフローゼに特有の形へ変貌がみられる。 98 年 12 月以前の寛解期の泳動図は本質的にすべて 98 年 12 月のものと同じ非ネフローゼの像であり、99 年 1 月以後のものは 1 月のものと同様のネフローゼの姿をとり続けるようになった。なおこれに伴って、血清総コレステロール(T.Chol)値も 1 月には著増し、以後その値を持続した。また、血清コリンエステラーゼ(ChE;基準値 350-750 IU/L)は 98 年 10 月までは、ほぼ、450 IU/L i以下のレベル (患者のbaseline value) を維持していたが、98 年 12 月に少し上昇傾向、99年1月には 576 IU/L と一気に上昇し、以後この値を持続するようになった。
 グラフに 3 年間の血清アルブミン量と α2-gl  分画の量の経過を示した。なお、α2-gl  分画の変化を見やすくするため、その量を 10 倍にして描いている。 時間スケールは短縮なく、正確にとってある(EXCEL の自動作図機能使用)。 98 年 12 月まではアルブミンのゆっくりした低下傾向と、 α2-gl の上昇傾向がみられるが、この時期の泳動図がネフローゼの像ではなかったことはすでに述べた。ついで、99年 1 月になって 血清アルブミン量の低下傾向が急に強まって、 3 g/dLを割り込むようになったと同時に、α2-gl レベルが跳ね上がり、本格的な高リポ蛋白(Lp)血症、すなわち、ネフローゼ状態に陥った。泳動図にもましてこのグラフは、その”瞬間”を明瞭にとらえている(註1)。
  【註1:表では アルブミンは TP ×分画 %  Alb(f) と nephrometry によるアルブミン値 Alb (n)とを併記してある。経過のグラフの Albumin は純粋な単体の物質としてのアルブミン量を正確に反映させるため nepherometry の値 (n) を使っている。 念のため、本症例について経過中の13 測定点で調べた回帰分析結果は、、 f  = 1.14 n  -  0.2、相関係数 r = 0.99 と正確に直線回帰した(p = 0.0001)。 f は泳動図上のアルブミン分画の量なので、物質としてはアルブミン以外の成分も含むから、当然、 n よりわずかに( 0.1~0.4 g/dLほど) 高値を示す。なお、n を正確な対照と仮定すれば、その優秀な相関係数と危険率からみて、f 、すなわち計算された各分画の蛋白量(TP × 分画%)もきわめて信頼度の高いデータであることがわかる。】

  TP Alb (n) Alb (f) α1-gl α2-gl β-gl γ-gl U.Prot T.Chol ChE
96/09/06 6.9 4.1 4.0 0.18 0.37 0.63 0.86 ± 273 433
98/08/24 5.8 3.4 3.8 0.16 0.53 0.57 0.79 35 259 382
98/10/23 5.9 3.5 3.9 0.14 0.50 0.57 0.83 214  211 414
98/12/18 5.8 3.3 3.7 0.17 0.58 0.59 0.82 299  244 490
99/01/22 5.6 3.0 3.2 0.20 0.81 0.60 0.77 612 412  576
99/03/12 5.0 2.8 2.9 0.19 0.80 0.55 0.56 895 434 597
  g/dL g/dL  ← mg/dL mg/dL    IU/.L







 

コメント
 本症例で提示した経過のグラフで、98年 12月 18 日と、99 年 1 月 22 日のひと月の間に α2-gl 分画 (α2-M/β-Lp) の上に起こった変化には注目すべき次の二つの大きな特徴がある。すなわち;
  1.α2-gl の増加(高リポ蛋白血症)は罹病経過のタイムスパンからすれば、”瞬時”ともいえるほどの短期間に起こっている。
  2.それは”悉無律”  (all or none law)に従っているらしい(1月に α2-gl が最大値に達したまま以後増減がない)。
 α2-gl から β-分画の陽極側(pre-β)の谷間の位置にかけて泳動される成分としては、ハプトグロビンを別にすれば、α2-M-gl と β-リポ蛋白(β-Lp = LDL)がそのほとんどを占めている。つまり、そこに起こる量的、質的変化はすなわちこれらの変化そのものだといえる。本症例で起こったことは、それらの産生が上がり、血中濃度が絶対量としてグラフのように急激に増加したということにほかならない。
 ネフローゼで高リポ蛋白血症(高α2-M-gl 血症を含む)が起こる理由は、アルブミンなどの喪失によって血液の膠質浸透圧が維持出来なくなったので、これらの蛋白がそのリリーフのため増産されるからである(1)。何故リポ蛋白なのかといえば、それらは、血清中に、浸透圧維持に貢献できる程度の量が含まれ、分子が十分大きいので尿に漏れ出さず、急場に間に合うよう素早く産生出来(ターンオーバーが短く)、脂質とカップリングするなどして蛋白質としての産生量が比較的少なくても一つ一つの分子が大きいので膠質浸透圧を上げる能力が高い等々、浸透圧保時に好都合な条件を揃えているからだと推定される(註2)。ならば、リポ蛋白はその特性のゆえに、この際”選ばれて”増産されるのであろうか。
  本症の経過から察するに、ネフローゼでは、膠質浸透圧の低下というストレスがある限界に達し、おそらくは osmoreceptor がそれを感知して送り出した単一の(ADH 低下?)、または、何か複合的なシグナルが、リポ蛋白などの産生細胞に届いたまさにその瞬間、程度の差こそあれ、応答可能な複数の肝細胞群が直ちに、そしてほぼ同時に最大の能力を以て応じたことを物語っている。なお、このとき、α2-M-gl、アポリ蛋白(Apo-B100)やChEなどのように・・・分子量が大きいという共通点(註3)を除けば・・・本来はそれぞれ別の指令で動く複数、おそらく多数、かつ別系統の細胞群が同時に動員されたことは強調されてしかるべきだろう。 
 このような反応様式は、ある蛋白質のもつ生物学的機能が必要とされるとき、たとえば炎症時の CRP のように、厳密に限られた反応系で、刺激の程度に従量的に対応する、肝臓でのいわばふつうの蛋白合成の制御機転とはまったく異なり、合成、増産される蛋白質は本来の生理機能とは無関係に、言い換えれば、非特異的に、単に膠質浸透圧を維持することだけを役目とした”もの”として生産されると解釈するのが自然である(註4)。そしてこのような応答をした結果が生理学的、あるいは臨床的には、一群の血清蛋白成分一気の増加として表現されることになる。
  しかし一方、ネフローゼや腎不全では、かなり小さい蛋白質で、健常者でも容易に糸球体を通過する  β2-マイクログロブリン(BMG=分子量  11.8 kDa) が、尿細管での再吸収障害だけではなく、糸球体濾過(GFR)の低下が原因となって血中濃度が上がってくることが知られている。このことからも、腎臓で起こっているネフローゼにいたる病態生理学的変化、そして、それを反映する血清蛋白成分の増減は、篩いの目の大きさだけでその意味を論じうるほど単純なものではなさそうである。一般に信じられ、本症例でも確認されたように、ネフローゼでは分子量の大きな蛋白質の何か( something big(s)) が増産されていることには疑う余地はない。しかし、分子量の大きい蛋白質にのみ、あるいはそのすべてに増産ドライブがかかるのかどうか、分子量の小さい蛋白質はどうなのか。それらはたとえ産生刺激が来て増産されても尿へ漏出のため見かけ上の血中濃度が上がらないだけなのか(註5)。また、血中濃度に増減をみない他の多くの蛋白質はそれぞれに量的恒常性を保つ何らかの仕掛けがあるのか、など、わかっていないことも多いと思われる(註6)。
 なお、症例呈示のところで述べたように、本症例でも、今回のネフローゼ発症前の 3 年間、徐々にではあるがアルブミンの低下と、ゆっくりとした α2-gl 分画の上昇が認められた。  この事実が意味をもつものだとすると、この患者もネフローゼ状態に陥る前には、膠質浸透圧の低下に対抗するための蛋白合成が、通常の様式でなされていた時期があったと考えることに無理はない。だとすると、ネフローゼは、発症前には期間の長短はあるとしても、低下する膠質浸透圧に穏やかなな制御機転、たとえば LDL レセプターの感受性低下など、で応接する前駆的ステージがあり、やがて、ついにはある何かが、ある域値を超えたとき、一挙にネフローゼ状態に陥るという二段階のプロセスを経ていることになる。 
  本症例の血清蛋白の変化が物語るものは、「ネフローゼには、発症の”瞬間”が存在する」というひとことにつきる。その”瞬間”の前と後とでは、連続性が断たれた、まるで違った病態である。すなわち、ネフローゼをネフローゼたらしめているものは、発症後に特徴的に起こる肝臓でのリポ蛋白を含む多くの血清蛋白成分の過剰生産であり、結果としてそれら余分な蛋白質の存在によってもたらされる腎機能のさらなる悪化や血栓症なども含むさまざまな病的プロセスである。血清総コレステロール”が基準値を超えているか否かにかかわらず(4)、ネフローゼの本質はここにあることを改めて認識すべきだと思う(5)。
 【註2: 分子が大きくて尿に漏出しないという理由だけでは、大きい蛋白が小さい蛋白に対して、それらの血漿(血清)中濃度が相対的に多くはなっても、絶対量として増えることはない。漏れ出さないだけならば”健常時と同じ量だけは保持される”にすぎない。】 
【註3: α2-M-gl の分子量は約 760 kDa、Apo-B 100 は約 500 kDa、Apo-B は LDLの骨格となる。ChE の分子量は約 350 kDa。】 
【註4: ネフローゼでは LDL レセプターの機能が低下し、結果として Apo-B が過剰に産生される機序の存在が想定されている(3)。しかし、たとえそのようなことがあったとしても、それだけでは、LDL だけでなく、ChEやα2-Mなど幾種類もの蛋白が一斉に短時間で産生されて来ることは説明がつかない。したがって、LDL レセプターを介するメカニズムがネフローゼの病像形成に深くかかわっているとは考えにくい。また、蛋白喪失状態によってエネルギー源としての脂質の代謝が亢進する、あるいは リポ蛋白の分解が抑制されることなどが、ネフローゼの高脂血症の一因ではないかと考える向きもあるが、これも前段と同じ理由によって本症の病像形成への関与は大きくないというべきだろう。】
【註5: ネフローゼ状態では、アルブミンも増産されていることはよく知られている。】 
【註6: リポ蛋白の増加も高脂血症というありがたくない影響を患者にもたらす。アルブミンの過剰生産は、濾過量の増大を招き、腎自体にとって悪い。体が膠質浸透圧の破綻処理に支払う代償はきわめて高いものつくというほかはない。】 
 (Oct. ''04      井上隆智)
文献
 1.Marsh JB.  Lipoprotein metabolism in experimental nephrosis.. Proc Soc Exp Biol Med 1996;213:178-86.
 2. de Sain-van der Velden MG, et al. Plasma alpha 2 macroglobulin is increased in nephrotic patients as a result of increased synthesis alone. Kidney Int 1998;54:530-5.
 3. Warwick GL, Packard CJ, Demant T, et al.  Metabolism of apolipoprotein B-containing lipoproteins in subjects with nephrotic range proteinuria. Kidney Int 1991;40:129-38..
4. 上田泰.総括研究報告. 厚生省特定疾患ネフローゼ症候群調査研究班昭和 48 年度研究業績.1974:7-9.
5.厚生労働省特定疾患進行性腎障害に関する研究班報告.難治性ネフローゼ症候群(成人例)の診療方針。日腎会誌 2002;44:751-61.

付記
  以後、この患者はネフローゼから回復することはなかった。2004 年時点では腎不全により透析を行っている。 
 
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