全身性エリテマトーデス(SLE)と妊娠
はじめに
これは、妊娠によって全身性エリテマトーデス(SLE) の疾患活動性(病勢)が顕著に抑制されることを自然経過として観察できた症例である。初診時、患者の血清学的異常は、すぐにでもステロイド治療に踏み切ることを考慮させるほどのものだった。しかし、初診後間もなく妊娠したので、不投薬のまま"息を潜めて"その経過を見守ることになった。経過は順調である(最下段参照)。
症例 31歳 主婦
患者は数年前、何かの機会に血液に異常があることを告げられていた。最近気になって近医を訪れたところ専門医に相談するようにと平成 15 年 9 月紹介されてきた。自覚的には軽度の関節痛があるかどうか、という以外取り立てていうほどのものはない。蝶形紅斑、脱毛、日光過敏、口内アフタもない。抗核抗体640×(homogeneous & speckled)陽性、抗 DNA 抗体 49.8 IU/mL と高値(基準値;6.0 IU/mL)、表に提示した以外に同時期にさらに 2 回測定した末梢血白血球数(WBC)が4,000と2,900/立方ミリだったので、関節痛をふくめると SLE の診断基準を4 項目は満たす。尿に異常はない。その他肝、腎機能など一般検査にも異常はない。血小板数 23万/立方ミリ、抗Sm 抗体、抗 SS-A/Ro 抗体はともに陰性。抗リン脂質抗体陰性。
血清学的な異常は決して軽いとはいえないが、血清補体価が正常であること、自覚症状があまりないことから、ステロイド治療に踏み切るかどうかはしばらく様子をみてから判断することとし、3 ヶ月に一度の来院を指示した。初診 2 ヶ月後の12 月、患者が「妊娠したので子供を産みたい」と申し出てきた。妊娠継続は許可し、内科的には既定方針通り積極介入をしないで、臨機応変の対応を念頭に置いて、無投薬のまま経過観察することとした。以後、産科でも通常妊娠以上のケアはされていない。患者にとってこれが第二子の妊娠である。
|
TP |
Alb |
α1-gl |
α2-gl |
β-gl |
γ-gl |
IgG |
IgA |
IgM |
anti-DNA |
CH50 |
WBC |
CRP |
PRE |
8.1 |
4.81 |
0.21 |
0.58 |
0.58 |
1.90 |
2,163 |
351 |
89 |
49.8 |
35 |
3,900 |
0.1 |
10W |
7.6 |
4.32 |
0.27 |
0.68 |
0.71 |
1.61 |
1,751 |
287 |
59 |
26.4 |
41 |
5,100 |
0.1 |
27W |
6.9 |
3.85 |
0.31 |
0.66 |
0.72 |
1.35 |
1,504 |
257 |
61 |
18.9 |
44 |
6,900 |
0.0 |
|
g/dL |
→ |
→ |
→ |
→ |
→ |
mg/dL |
→ |
→ |
IU/mL |
U/mL |
/cmm |
mg/dL |
所見
経過を示す 3 枚の泳動図はアルブミン・レベルで補正して相互に各分画のおおよその絶対値の比較ができるようにしてある。左端の PRE は平成15 年9 月末、妊娠の約 2ヶ月前の初診時のものであって、β と γ の高さの逆転を認め、中等度の高 γ グロブリン血症の像である。右端、妊娠 27週(W)では γ のピークが が低下したほか、妊娠特有の β の屹立(註 1)がはっきりしている。ほかに、アルブミンの低下、α-1( 註 2)とα-2(註 3) の増高も目立つ。α1、α2-gl の変化は CRP が陰性のままだが軽い炎症の像に近い。中央、妊娠 10W の泳動図はちょうど両者の中間の性格をもっている。 PRE における SLE にコンパチブルな泳動図が、妊娠期間が深まるにつれ健康な妊婦相当のパターンに変貌していく様子がみてとれる。表に示したように、γ グロブリン(免疫グロブリン)レベルは抗 DNA 抗体とともに、妊娠期間が進むにつれて着実な低下傾向を示し、その程度は、無治療の SLE 患者では通常みることの出来ないような劇的な改善である。なお、アルブミンが妊娠によってこの程度低下することはまれでない。また、各分画相互の比率が顕著に変化していることは肝臓が合成すべき蛋白の優先順位に変動が起こっていることを意味し、アルブミン(と γ グロブリン)の減少の原因は passive な simple dilution によるものではない。(付記:妊娠30週において母、胎児とも経過は順調である。本稿は分娩予定日より前に作成したものである。)
(註: 1 :妊娠にともなう鉄運搬の亢進によるトランスフェリン(Tf)の増加 (1)。 2 :この位置に泳動されるものとして、増加の主役はα1-アンチトリプシン(α1-AT)以外にはない。 3 :左右対称の中等度の α2-gl の増加は α2-マクログロブリンではなく、ハプトグロビン(Hp)である。)
コメント
血清蛋白像からみれば、この患者では SLE が寛解に向かっているという以外の解釈はあり得ない。しかも、それは、妊娠と因果関係をもって起こったことと考えるのが自然だろう。
「妊娠はSLE の病勢に悪い影響を与える」と信じられている。報告にもよるが、妊娠したSLE患者の50 パーセントにも増悪 (flare) が起こるという(2)。しかしこれはわれわれの日常感覚とはかけはなれた"悪い"数字である。筆者は今まで自分のSLE 患者で、のべ約15 例ほどの妊娠出産を経験し、そのほとんどがflare を起こさず無事挙児にまで到っている。
妊娠によってSLEが増悪する原因として次のような説明が有力である。 「妊娠すると妊婦血液中のestrogen は急激に増加し、妊娠末期には通常値のおよそ100 倍にも達する。したがって、妊娠すると、この estrogen の急激かつ高度の増加に影響されて、ヘルパー T 細胞(Th)のバランスが Th1 から Th2 優位へとシフトする。SLEではTh2 によって支配される液性免疫反応が亢進して抗体産生が高まる結果、病勢に悪影響が出る。なお、Th2 は抗炎症性サイトカイン IL-4、IL-10 の産生をうながすため、関節リウマチ(RA)患者が妊娠したときには病勢が頓挫する(3)」。かように、「妊娠は SLE には悪く、RA には好ましい」とは、永くリウマチ医が信じ、患者をそう啓蒙してきたことである。これは真実なのか、あるいはただのfancy にすぎないのか。
呈示した症例は、妊娠にとっても、SLE にとっても”好ましい”経過をたどっている。この患者の経過を現在のリウマチ病学による以上のような説明と両立させることは理論的に難しい。その折り合いをつけるためには、今のところ、次のような大まかなスペキュレーションを試みるしかないだろう。
「SLE が妊娠によって悪化するかどうかを、たとえばヘルパー T 細胞の機能変化など、単一の要素だけから説明するのにはもともと無理がある。妊娠は母体にとって、もっと複雑でしかも大きな揺さぶりがかかった状態であり、たとえ免疫系の変化の中に、理論通りの事態が起こっていたとしても、妊婦にはそれを圧倒(overwhelm)するような生理学的変化が起こっていて、その総和としての生体反応は SLE に寛解をもたらす。」
まとめ
SLE 患者が妊娠したとき、母児に起こりうる事態全般にわたり適切に対処するのは必ずしも容易でない。 SLEはそれ自体 heterogeneity の大きい疾患であるし、ループス腎炎など臓器病変の程度、抗SS-A/Ro抗体(心ブロック)や抗リン脂質抗体(流産)などの有無、骨粗鬆症の影響、そして周産期の疾患動態等々、顧慮すべき因子が複雑多彩だからである。だが、かなり控えめな主張をしたとしても、「妊娠は SLE の病勢に悪い影響を与える」という”常識”はひとまず白紙に戻すべきだとはいえるだろう。妊娠経過中に、治療が加えられないままで SLE の血清学的異常、ことに γグロブリン・レベルがかくも改善することの意味はもっと重視されてよい。それはまた、産後の経過の指標としても大きな意味をもつはずである。(June '04 井上隆智)
追記(その後)
分娩約 1 ヶ月前の8 月 11 日 のデータは、 IgG、IgA、IgMはそれぞれ1,481、286、66 mg/dL、抗DNA抗体価は11.0 IU/mL まで低下していた。そして、ほぼ予定日にあたる 9 月 15 日、体重 2,800 g の健康な女児を無事出産した。
ただし、分娩後 3 週目、何ら症状はないものの、γグロブリン 1.68 g/dL、IgG、IgA、IgM がそれぞれ 1,734、333、97 mg/dL、抗DNA抗体価 18.5 IU と血清学的指標は再燃傾向を示し、以後注意深い管理が必要とみられる。(Oct. '04)
追記:2017年現在、患者はプレドニゾロン5ミリ以下でフォローされ、完全寛解状態にある。子供は12歳になり健康である。
文献
1. Tapiero H, Gate L, Tew KD. Iron deficiencies and requirements. Biomed Pharmacolther 2001;55:324-32. 2.
2.Ostensen M. Sex hormones and pregnancy in rheumatoid arthritis and systemic lupus erythematosus. Ann N Y Acad Sci. 1999;876:136-43.
3.Wilder RL. Hormones, pregnancy, and autoimmune diseases. Ann N Y Acad Sci. 1998;840:45-50.