低音こそ大切、出会いこそ大切

 

 

 この写真は、私のスピーカー、タンノイ・ランカスターLancaster(Mansfield)のサランネット(スピーカー保護用の前面ネット)の裏を写したものです。まず、目につくのはスピーカの穴以外は薄い樹脂の板で出来ていることです。これだと丈夫だけれども、音圧で不規則に振動をしてしまい再生音を濁します。次に、本体の箱に止めるためマジックテープをホッチキスで”適当に”打ってあることや、糊のはみ出しが見えることなど、これらはとても日本製の市販品では考えられない粗雑さです。さすがはイギリス人のやること、「ちゃんと音が出さえすればそれでよいではないか」。そういう声が聞こえて来そうです。実はイギリス製スピーカーも全部がこんなデリカシーのない造りをしてあるわけではありません。同じタンノイでも最高級のオートグラフは高級家具よりも美しく豪華なものです。私の安いランカスターは、デッカ(イギリス最大のレコード会社;DECCA)のスタジオ・モニターとしてプロ用に作られた製品だっただけに、一般人に買ってもらうつもりなど念頭になく、たまたま業務用に作ったものの余り?がこんな半製品みたいなものとして世に出たのでしょう。 (その割にはかなりの数が市販品として出回りましたので私は新品を買うチャンスに恵まれました。)

 ここでは、そういうこととは別のことをお話したいと思い、この写真をお見せしました。真ん中の黒いマジックテープの上をよく見てください。チョークで書きなぐられた「34」の文字が見えると思います。これは、たぶん、このスピーカーの低音は34ヘルツ(後述)まで出るという測定結果を、タンノイの技術者がメモしたものだろうと思われます。34ヘルツとはどういう意味を持つ数字なのかを考えてみましょう。(因みに、このランカスターに使われているスピーカー・ユニット315HPD単体のカタログ上の低音再生限界(fo;エフゼロ)は20ヘルツですが、スピーカを箱に入れるとそんなに低い音は出なくなります。)

 再生装置(ステレオ)は、スピーカーと、アンプと、CDプレーヤーの三大構成要素で出来ています。そのどれもが音楽再生の品位に関わるパーツですが、音をほとんど決めてしまうのは何といってもスピーカーです。千万円のアンプをラジカセのスピーカにつないで鳴らせば、ラジカセの音しかしません。逆に、これは出来ればの話ですが、ラジカセのヘッドホン・ジャックに千万円のスピーカーをつなげば結構な音が出るはずです。

 ステレオ装置のなかでアンプとCDプレーヤーの製造の技術は完成度が高く、がんばれば理想に近いところまで作れるのだそうです。これに比べれば、スピーカーは作りにくく、どんな高級品であっても、ひずみが桁違いに多く、音の出過ぎ、抜け落ちがあり、癖だらけで、アンプの送り出してくる信号(音)を忠実に再生するものなど一つもありません。私のスピーカーはサランネットをつけるのと外すのとだけでも音がはっきり違います。これがスタジオモニター(検聴用)だったのですから驚きです。

 それでも、音楽用として売られているスピーカーは、テレビやラジオについているスピーカーとは格が違う再生能力を持っています。本格派はペア3万円くらいのスピーカーでもまずますの音はします。ちなみに私のサブスピーカー、ヤマハ10Mはプロ用の有名なスタジオ・モニターですが、価格はペアで正価5万円でした。20年以上モデルチェンジなしで作り続けられ、今でも多くのスタジオで使われています。

 音楽再生用スピーカーで、もっとも確保しにくいのが低音の再生能力です。西洋音楽は豊かな低音の上に組み立てられているといっても過言ではありません。低音が鳴らなければ西洋音楽を楽しむ価値が半減します。

 では、スピーカーとしてはどれほどの低音が出ればよいのでしょうか。人間の健康な耳は20ヘルツの低音を聞き取れると言われていますので理想は20ヘルツの再生が可能ならばよいのでしょうが、現実にはそこまで再生できるスピーカー・システムはありません。さらに、低音の再生限界はスピーカーの置かれた部屋の大きさによってほぼ決まってしまいます。

 普通の条件で音速は毎秒340メートルです。もっとも基本的な音波はアルファベットのSの字を横に倒した形(サイン・カーブ)をしています。この音波の(S型)1個分が丁度340メートルあることを1ヘルツ(Hz)の音と呼びます。つまり、毎秒1ヘルツの音波の長さは340メートルです。ですから、340メートルのなかにたとえば100個分の波が入る、つまり、音波1つの幅が3.4メートル(=340÷100)の音は100ヘルツということになります。このように、高い音になるほど、1波長の幅が短くなります。20ヘルツの音は340÷20=17メートルの長さ(1波長)の波です。部屋で再生出来る最低の周波数は、1波長分が跳ね返り、あるいは折れ曲がることなくその部屋で存在しうる周波数です。言い換えると、その部屋でとれる最も長い直線の距離と同じ波長の音波が再生できる一番低い音になります。今述べた例でいえば、20ヘルツを再生するには部屋の長さがその1波長分、17メートル必要だということになります。私の部屋はおおよそ縦7メートル、横5メートル、高さ3メートルの箱に相当します。この箱で一番長い直線がとれるのは、床の右隅から天井の左隅までの長さです。ピタゴラスの定理に従って計算しますとその長さはほぼ9.2メートルになります。従って、私の部屋の再生可能な低音の下限は、340÷9.2=37ヘルツということになります。私の部屋はランカスターの再生域の34ヘルツをあまり損なっていないとみてよいでしょう。

 フルオーケストラの雰囲気まで再現する20ヘルツは無理だとしても、34ヘルツを再生できるランカスターと私の部屋のコンビは、感覚的には十分な低音を鳴らす能力があることを私はLPやCDを聴いて知っています。数少ないながらそういう音を出すCDがあります。だから、音楽を楽しむのに34ヘルツが出れば、ひとまず十分だと言い切ることができます。

 では、34(私の部屋では37)ヘルツの音とはどんな音でしょうか。37ヘルツが入っているクラシックのCDは案外少ないのです。たとえば、サイモン・プレストンのオルガンで、バッハのトッカータとフーガ(グラモフォン POCG 50068)は文句なしに34ヘルツが録音されているかのように感じさせる圧倒的な迫力で鳴りますが、このパイプオルガンの重低音は不思議なことにヤマハの10Mからでさえ何とか聞き取れるのです。ヤマハは低音は公称60ヘルツまでしか再生できませんから、このCDに録音されているパイプオルガンの低音の主成分は60ヘルツより高い音だということになります。60ヘルツでも聴かせ方によってはもっと低い音まで鳴っているように錯覚させることが出来るのです(もちろんこのCDに60ヘルツ以下が含まれていないといっているわけではありません)。これに対し、本物の37ヘルツが見事に鳴り渡るCDがあります。ベストセラーのCDで、「image 3」 (ソニーSICC-149)などがそうです。このCDの第一曲、アンセム (オーケストラ・バージョン) / ヴァンゲリスはすごい音がします。少なくとも60ヘルツ以下、多分37ヘルツ近く、もしかするとそれ以下の音が収録されている可能性があります。ランカスターでは地を這う低音が悠揚迫らず部屋の空気を揺らせるのに対し、10Mからはこの音はまったく出てきません。だから、ここに聞こえる低音は60ヘルツからは、はるかに低い音だと言えます。こういう音を経験しているので、自分の部屋と装置にはおおよそどの程度の低音再生能力があるのかが、私にはわかっているわけです。

 そういう前提があって、手持ちのクラシックのCDを見渡してみると、37ヘルツが入っていそうなものは数えるほどしかありません。例えば、「幻想交響曲」の最終楽章で聴かれる大太鼓一撃の迫力は、いまだにオーマンディー指揮、フィラデルフィア管弦楽団のLP(ソニー SOCT 8)を超えるものがありません。CDの優秀録音だとされるデュトワ盤(ロンドン F35L-50194) 、ブーレーズ盤(グラモフォン POCG-10025)、どちらもオーディオ的には全然だめです。この2枚では、大太鼓はずいぶんと軽く「ドン」というだけです。どうかメーカーさんはまともな録音のCDを作ってください。この大太鼓の一撃如何で「幻想交響曲」一曲全体の印象がまったく違ってくることぐらい録音技術者なら知らないはずはないでしょう。ソニーはSACDや、アップルに負けている携帯型音楽装置などにうつつを抜かしている暇があったら、自分のところで出したCD 「image」シリーズ の技術力とセンスの高さを再認識して、昔のように優れたオーディオ製品を作ってください。私はウオークマン・プロフェッショナルをいまだに愛用してますが、デッキと録音機としてだけ使い、ヘッドホン・ステレオとしてはまったく使ってきませんでした。ヘッドホンでは、音が頭の中を飛び交う(「音像が頭蓋内に形成される」と言います)のでとても不自然、ことによると不快なものです。ヘッドホンでしか聴けないウオークマン、および最近の iPod やスマートフォンなどはオーディオ入門用としてはまったく不向きな代物です。付け加えれば、ヘッドホンは、音圧はあってもエネルギーのない”偽の”低音を鳴らすだけにさらに始末が悪いのです。

  結論。低音は大事です。しかし、大方の家庭ではスピーカーの低音再生能力は部屋の大きさ(と造り)で大きく制限されます。ですから、スピーカーは低音が4、50ヘルツも出れば十分です。クラシックのCDの多くは37ヘルツの低音など入っていません。そういって悪ければ、少なくとも家庭ではその低音は再生しきれません。誤解を恐れずに言えば、クラシック音楽を聴く限り、低音の再生能力を追求するためにというなら高価なスピーカーは無駄です。(だた、重低音はあまり出なくても音の良いスピーカーは使ってください)。ヘッドホンで聴く音楽は本当の音楽ではありません。その上、今の若者が聴いている音楽ジャンルはきわめて貧困です。それをヘッドホンで聴いているわけですからそういう人たちからクラシック音楽愛好家が新しく生まれる可能性はとても低いと思わなくてはなりません。オーディオ業界には失業の危機が迫っています。念のために言えば、「クラシック」とは、「古典的な」ということのほかに、「もっとも標準的な」という意味ももっています。「クラシック音楽」とは「ふつうの音楽」を指す言葉です。あえて言えば童謡もまたクラシック音楽です。

 私たち中高年は、若い頃、音楽を聴く装置も、ソースも手に入りませんでした。だから、かえって悪い「音楽」や悪い「音」も聴かかずにすみました。川田孝子さんの「みかんの花咲く丘」のレコードが欲しくても、手に入れるすべもありませんでした。そういうなかから音楽に対する渇望も生まれました。CDなど音楽ソースの値段が劇的に下がり、商業主義から売れれば何でもいいから売ってしまえとばかり、品性も何もない「音楽」やヘッドホンのようなお手軽オーディオを世の中に振りまくのは、何もなかった昔よりいっそう悪く、精神文化の衰退を招くだけだと思います。

 低音は大事だ、という話でした。

 

参考までに 〜 私とランカスターとの出会い

 1974年、タンノイ社は工場が火事になるなどして事業がもたつき、製品の供給が止まったりしました。1976年頃だと思いますが、製品につけられる伝統的ロゴ(下段写真)まで変わることになりました。それから間もない昭和53年のことです。いつも親切に私の部品選びのアドバイスをしてくれていた大阪日本橋、共電社の売り場主任、杉本勝氏が、たまたまふらっと店を訪ねた私に、「タンノイ・ランカスター最終便が3セット入荷しているのですが、井上先生に一つどうかと思って」と勧めてくれました。私は彼に全幅の信頼を置いていましたが(後述)、ことは一生もの、しかも安月給の私にとってはかなり”高価”(左右2台ペアで20万円超)な買い物となります。夕方から店が閉店時間になるまで、あれほど一生懸命音を聴いたことはありません。同店3階の高級品試聴室で、他のいくつかのスピーカー、AR2、アルテックの、ボイス・オブ・シアターなどを含め多くのスピーカーと聞き比べました。決め手になったのは、演奏も曲も忘れてしまいましたがピアノ曲でした。そこに置かれたどのスピーカーにも負けずこの小さいランカスターは断然美しい音を響かせました。タンノイは一般に衝撃音の再生を苦手とし、弦楽器の再生が得意だと言われています。しかしこのときの試聴では弦の再生の優位性はよくわかりませんでした。ピアノが美しい。これは杉本主任とも意見が一致しました。きら星のように並んでいるほかの高級スピーカーと互角に渡り合えたこの”小さくて、安い”スピーカーを買うことをこの日その場で、清水の舞台から飛び降りる思いで決断しました。幸せな巡り会いだったと思っています。このランカスターは、私が前に使っていた湿気の多い部屋に置いていたとき、ユニットのウレタンエッジにカビが生えてぼろぼろになり、ボイスコイルごと取り替えという大病を患いましたが、その修理の期間を除けば、買ったときから25年余、私のメインスピーカーであり続けています。なお、サブのヤマハ10Mは、タンノイ修理中のピンチヒッターにと買ったものです。このときも杉本さんが付き合ってくれて、「このクラスで一番良い音とは言えないが、まあ、まともな音だ」ということで意見が一致しました。このとき試聴に使ったCDは鮫島由美子さんのソプラノでした。

 ランカスターは期待は裏切らなかったと思っています。オーディオのことなど何もわからなかった頃、最初に専門のお店でおそるおそる買い物をしたとき、丁寧に応対してくれたのがきっかけで親しくなり、以後何でも相談に乗ってくれた杉本主任(現在退社)との出会いが、このランカスターとの出会いにつながりました。彼には心から感謝しています。

 (註:タンノイの旧シリーズは、高級品から順に、オートグラフ、GRF、ヨーク、ランカスターが据え置き型。それに、��-LZというブックシェルフが型がありました。据え置き型はヨークまでは15インチ、ランカスターは15または12インチ、��-LZは10インチのスピーカー・ユニットを装備していました。タンノイのスピーカー・ユニットは、ウーファー(低音用スピーカー)の真ん中にツィーター(高音用スピーカー)を同軸状に仕込んだデュアル・コンセントリックと呼ばれる独特の作り方がされています。一見、低音用のスピーカーだけしかないように見えますが、そういう構造なのでこれでで低音から高音までの全音域をカバーしています(写真)。私のランカスターは12インチ(31.5センチ)のHPDという型番のユニットが使われています。超マニアからは、HPDの型番のユニットはあまり評価されず、もっと古いモニター・レッド、モニター・ゴールドでなければタンノイではないと言い張る人もいます。理由はよく知りません。一方で、私の12インチランカスター(新タンノイから一瞬世に出たまったく同一規格のCHEVIOT)はいずれも「隠れた銘機」であるとする向きもあります。悪い気はしませんがこれも理由はわかりません。

”最後の”ランカスターを飾るタンノイの伝統的バッジ

 

戻る